納得を保留する

仕事をする上での納得感

仕事をしていく上で納得感は大事。よく仕事に取り掛かるときに5W1Hを明確にするといいと言われたりする。
その中のwhyとwhatが特に納得感を得るために求められているかなと思う。
考えてみれば自然だけれど、やっぱりなんのためにやるかがわかっていないと仕事を進めていったときに
正しいと思って進めていたことがずれていることに気づけなかったりする。
やっぱりなんでやるかを知っていること。それを腹落ちさせて納得しておくことは大事だと思う。

みんなの納得感を作る功罪

納得するには、それが「正しいと感じられる」「理解できる」「遂行できる」という要素があるような気がする。
これって完璧(なんてものがあるかわからないけど)にやるにはどう考えてもコストがかかる。
理解できるには、不明点がなく説明の意図が分かる必要がある。
遂行できるということは、実行するプランが見通せており、実行するためのリソースを鑑みて問題ないまたは問題があるという判断ができる必要がある。もしかしたら、その検証ができる事がわかっている必要がある。
正しいと感じられるには、これらの状況・状態を理解し課題の有無、代替案の有無、目的と手段が適切に結びついているかを
判断できる必要がある。

納得感を作るのは、「納得感を作るコスト」より「納得感が無いことで発生する手戻りやコスト」のほうが大きくなるから
対処することに意味がある。もちろん仕事をすすめるモチベーションにも影響するそれによる進捗や他への影響もある。

そして大事なポイントは、関わる人が増えれば増えるほどこのコストは膨らんでいくのを感じることが増えた。

納得しないことを選んでもいい

もし、このコストがどんどん増えていき仕事による価値を届けるのがどんどん遅れていったとしたら
それは果たして正しいだろうか?という問いが当然生まれてくる。
2時間作業すれば価値が届く改善のやる意義を一日かけて議論していたらどうだろう。
ささっと作業して届けてしまいたいはず。
こんなパターンならおそらく議論しないで出そうと概ね判断できると思うが、
現実は複雑なのでここに少しの不確実性を垂らすと途端にわからなくなったりする。

自分個人としては、納得感がないときは納得感を作れるところまでとりあえず動いてみると言うのが基本方針だ。
判断材料を持っている人のところに行き話を聞いたり、一次情報を調べたりする。
それで一定レベルまで動いたがわからないとなった場合は、一旦今ある情報で判断をする。
そして物事を少し進めていったことで収集できた情報で判断するを繰り返す。
初手で全部理解できると思わずにここの納得感は保留しようと決める。

これが個人ではなくチームやグループになった場合は説明責任のある人のコストが人の数が増えれば増えるほど跳ね上がっていく。
特に「全体が見渡せて筋が通るレベル」の説明を受けたい情報の受け手と「現状の理解はここで都度情報を持って判断していきたい」という情報の伝え手が前提調整できてない時が悲惨だなと感じる。
どちらの意図も理解できるなと思いつつ、万人が理解できて万人が納得できる説明は政治を見る限り存在しないことを思い知る日々なので、さもありなん、さもありなんとむねの中で唱えつつ、伝え手の人に対して「本件に関して一番解像度が高く主体的に取り組んでいるのだから少なくても自分が判断するよりは正確だろう」という思いで乗っからせてもらうことが多いかなと思う。

全てを理解できればいいが、それは難しい。
極力納得感を高められるよう頑張りつつも、人との仕事の中では背中を預けることや、
関心の境界線をしっかり引き(そして認識を合わせて)少しオーバーラップするぐらいで
物事を進めていくのがよいおとしどころなのではないかと最近は思う。

全てを理解するより、自分が為さないければならないことがあると思うので。