敗北と対話

我もすなる日記なるものを。


秋が終わった

12月の初めまで皮膚は秋のように感じていたと思う。コートを申し訳程度に着ていた。しかしちゃんと冬はやってくる。季節はちゃんとにやってくるためすごい。私は今日もコートまたはダウンをちゃんとに来ている。

敗北について

今月ひとつ明確に敗北した。
自分ではない別の人がした選択が、どんなに合理的であっても、どんなに言い訳できても、どんなに自分の手に追える範疇から外れていても、選択を覆せるような材料を持って説得ができなければそれは敗北になる。
いろいろと自分なりに計らってみて思ったとおりになった部分があったものの、それによって選択を加速させたということもあるし、そこを下支えするという器も持ち合わせていなかったように思う。なるようにしかならないと腹を決めるのもそれはそれで潔いが、明確に自分の手に追える範疇を超えた事柄があったことも事実だった。
いろいろと差し引いても、私とまたは私たちは材料を持って選択を覆すことはできなかったのだ。敗北である。
それぞれの意志ある個人、または集団は選択をする必要があり、その選択は自分を十分満足させる選択でなければならない。選択に正解不正解はなく、それはただの選択であってその傍らに勝利と敗北が鎮座している。

対話について

年末ということもあって、人と会話する機会が増えている。
今年の漢字だったり、流行語大賞であったり、人々がこぞって年をまとめ始めている。今年の漢字を自分に置き換えるとなんだろうか?と考えるのだけど、私が選ぶ漢字は毎年「変」に落ち着いていしまう。社会人になってから毎年何かしら変化をしていてそれ以外いつも思いつかない。それってある意味安定では?と思ったりした。
そうやって今年や直近のことについて、人と対話しまとめ上げていくのだけど、一つ困ってることがある。振り返っても良いことしかあんまり思い出せないのだ。
細かいことは確かに思いつくことはある。だけれども総じて良くなっているような気がしてしまって、大局で「頑張ったよね」「良くなったよね」「次はもっと良くなるね」という感想が大半を締めてしまう。
それは例えば指摘をしなければいけない立場に立ったときに相手の成長機会を奪うことにも繋がりかねないので、私は「次もっと良くなるね」にその全比重をかけなければいけなかったりする。
もしかしたら、本当にそうなのかも知れない。大局でポジティブな日々だったのかも知れない。あとは自分の求める理想が低いため容易く超えられたハードルをもしかしたら褒めているだけなのかも知れない(自分ではそんなことはないと信じてる)。
対話には自分の更に深い思いを浮き彫りにする力があると思う。そんな中、会社でゼリア会なるものが発足されたみたい。中身の詰まった話も大事であるのだけど、時にはSmallTalk(雑談)で得にも害にもならないような会話をダラダラやっていきたい。
あと一週間で2018年が終わります。
もう一つ個人的に大きい出来事があったんだけどそれはもうちょっと先になったら書くなり、身近な人に伝播させていくなどしていきたい。