10日前に現代美術館に出かけた。
やりたいことは色々あるはずなのに、いざ自由な時間ができると何をしたらいいかわからないということが起こるようになった。人々はそういうときに友達とご飯を食べたり、お酒を飲んだりするのかもしれないけれど、なんだかそういうのは自分にとっては違う感じがする。誰かにとって正しいことを建設的ではない形で話したり、誰もそれに対して責任のない中で笑い話にして消化するようなこと「だけ」をするのは自分にとっては違う感じがする。
そういう小さい反抗の形として、何もすることがなければ美術館に行くという決まりを自分に設けた。それが自分にとってはとても良かったと思う。
この日はそれに友達を巻き込んでしまったので、チケット代を自分が持つ形で半ば強引に同行してもらった。
人々はいろいろなことを考えながら生きているけれど、美術に向き合う人々はそういう意味でとてもピュアな存在だと感じる。自分には一見無駄に感じることに価値を見出して、見出すだけではなく、実行と展開と探求をしっかりしてきた結果が展示を見に来た人々に価値という形で見られている。そんなことについて考えながら展示を見たのだった。
もう15歳から一緒なので20年以上関係性を続けている私たちは、話題こそ変われど、18歳または22歳の言葉の球速でずっと会話のキャッチボールをするのだった。人は外側から変わっていき、内側ほど変わらないんだなと思った。